今春 私たちの業者会である欧瑠璃会の研修会でお招きした塩沼亮潤大阿闍利様が修行なされた
吉野山金峯山寺に行ってまいりました。
今年の夏は本当に暑く、 関西もその暑さは身にしみるものがありました。 バスを降りること山門までは
徒歩20分。 ちょうど吉野山の入口になるそうですが、 とても静かな山の中にそのお寺はありました。
このお山をあちら側の頂きに向って、毎日毎日 片道24キロ往復で48キロの道のりを歩いて行かれた
のかととても感慨深いものがありました。 年と体重の重さで 少し歩くとフーフーと息をあげてしまう
自分を垣間見るに「これでは如何[#IMAGE|S25#]」と思う瞬間でもありました。
本道に入ると、 以前どこかで見たような般若が両側に控えており、 どこかに山岳修業の
事は書いてないのかとあたりを見回しましたが、 そこは本当に静かな面持ちで静寂に
見舞われていました。 受付にいた住職さんに思い切って大阿闍利様の事を伺ってみると
「はい 確かにこちらから毎日吉野山に歩いておでかけでしたよ」というお言葉をいただき
何故か自分がそこにいることがとても不思議な感覚に見舞われました。 里の世界も修業だ
山の世界、里の世界、どこにいても生きているということは修行です。 日々ある諸事に
心を揺らしながら毎日どうあればいいのか己をみがいている毎日だとつくづく感じました。
『人生生涯小僧のこころ』より
片道24キロ、高低差1,300メートル以上の山道を16時間かけて1日で往復。
9年の歳月をかけて48,000キロを歩く。 そういう苦行を経験したから、悟れるのではない。
大事なのは、行から得たものを生活の中でよく実践することである。 逆に言えば、それぞれに
与えられた場でしれじれぶ与えられた役目を果たしていく中でも、多くのことを感じ、 悟ることが
できる。 だから、私たちの人生はすべて修業なのである。